古今東西の英雄達が愛読した孫子!
  歴史の陰に孫子兵法あり!!

金日成(2)


DNA#017 金日成(キム イルソン)
(1912〜1994)北朝鮮
〜孫子的評価 55点
 朝鮮民主主義人民共和国の「永遠の国家主席」。
 19歳の時、南満州で抗日ゲリラ活動を始めた。
 第二次世界大戦終結の1945年、米ソ二大強国の思惑により朝鮮半島は北緯38度線を境に分割占領され、 ソ連が占領した北部地域にスターリンが樹立を計画していた傀儡(かいらい)の共産党政権の “ソ連に好都合な指導者”として金日成が選ばれた。
 1948年、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国され、金日成は最高指導者として首相に就任した。
 1950年6月25日、朝鮮半島統一を目論む金日成の北朝鮮軍が 38度線を越えて侵攻し朝鮮戦争が始まった。
 侵攻を受けた韓国側にはアメリカなど国連軍が、北朝鮮側には中国人民義勇軍が加わり、ソ連が武器調達 などで援助して、戦況は38度線付近で膠着状態となり戦闘は3年に及んだ。
 1953年7月、休戦協定が結ばれ戦争は終結し、何食わぬ顔で平壌に帰還した金日成は独裁的に権力を振るう スターリン型の政治手法を用いて反体制派(政敵)の粛清を次々と進め権力を掌握した。
 1965年、独自路線を突き進むという 「主体思想」 を打ち出して国民の洗脳を始め、金日成への個人崇拝を 徹底させた特異な国家体制が作られた。
 その後、悲願である祖国統一を狙い、過激な 「対南工作」 活動を頻繁に繰り返した。
 1989年11月、ベルリンの壁が崩壊し冷戦は終わったが、軍が全てに優先される特異な軍事国家体制が益々 強化されていった。
 1994年7月に金日成は死去し、絶対的権力と主体思想を引き継いだ長男・金正日とアメリカとの間で 駆け引きが繰り返されている。
「個人崇拝と軍事優先の国家を創った男」
 第2回は、彼が 1950年に朝鮮半島統一を目論んで北緯38度線を越えて侵攻し、朝鮮戦争を 引き起こしてから、戦後、反体制派(政敵)の粛清を進めて権力を掌握し、金日成への個人崇拝 へ踏み出すまでの経緯を紹介します。
       ( NHKスペシャル「ドキュメント北朝鮮」 参考 )
 
■〜南に一斉攻撃を開始して朝鮮戦争を引き起こした〜
 1950年6月25日、北朝鮮軍が 38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。
 「朝鮮民主主義人民共和国の領土は朝鮮半島の全体である」と首相就任した際に演説した 金日成が仕掛けたのだ。
 開戦前に金日成はスターリンに 「アメリカは介入しない」 との判断を伝えており、開放記念 日の 8月15日までに朝鮮半島を統一するつもりでいた。
 
 しかしアメリカは参戦し、7月7日には国連安保理はアメリカ軍 25万人を中心としてイギリス、 オーストラリアなども加わった国連軍を結成した。
 だが準備不足の国連軍を北朝鮮軍は各地で撃破して、2ヶ月後には北朝鮮は韓国の 90%以上 を制圧した。
 総司令官マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、9月15日に国連軍が仁川へ上陸して ソウルを奪還すると、戦局逆転して北朝鮮軍は敗走するようになった。
 金日成は家族(祖父母、子供の金正日・金敬姫兄妹)を疎開させた後、部下に戦争の指揮を任 せて自らも逃亡した。
 ところが 10月19日に中国が中国人民志願軍を派兵してきたことで、戦況は38度線付近で膠着 状態となり、その後、戦闘は3年に及んだ。
 
 1953年6月の休戦後に、金日成は何食わぬ顔で平壌に帰還した。
 1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ戦争は終結したが、 国土は焦土と化し、一般市民の犠牲者は 100万人とも 200万人とも言われ、離散家族は 1000万 人に達した。
 
★金日成は武力による朝鮮半島統一という個人的野心を満たすため、国益にもならず、勝算 もなく、もちろん危機が迫っているわけでもないのに、強引に戦争を仕掛けた結果、朝鮮半島 全体に大きな被害を発生させてしまったのだ。
 孫子が最も戒めていることを無理押ししたために。
 
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  12-08(火攻篇)
     「利に非(あら)ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、
      危うきに非ざれば戦わず」
         ※国益にかなわなければ戦争を始めてはならない、
         勝つ見込みが無ければ軍事力を行使してはならない、
         危機が迫っていなければ戦ってはならない。
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■〜反体制派の粛清を進めて権力を掌握し、金日成への個人崇拝へ踏み出した〜
 終戦直後に金日成は強化された権威を利用して、独裁的に権力を振るうスターリン型の政治手法 を用いて反体制派の粛清を次々と進めた。
 当時、4つの政治勢力が争っていた。
 1.国内派:戦時中の抗日活動を国内で行っていた一派。
        副首相パク・ホニョンがリーダー。
 2.ソ連派:ソ連系朝鮮人
 3.中国派:戦時中の抗日活動を中国で行っていた一派。
 4.パルチザン派:金日成らゲリラ活動をしていた一派で最小グループ。
 
 先ず、朝鮮戦争に失敗した責任を全て副首相パク・ホニョンに押し付け、アメリカのスパイ として逮捕し処刑して国内派を粛清した。
 次に、1953年3月5日のスターリン死去後はソ連の統制が緩んでいたため、金日成を支えてきた ソ連派を次々に批判し解任した。 その多くは処刑されたり行方不明となった。
 
 1954年の解放記念祝賀集会のパレードではソ連指導者の肖像画は目立たなかった。
 そして、金日成を称える歌が様々な集会で歌われるようになり、肖像画は街の至る所で掲げ られるようになった。
 巨大な肖像画が掲げられ 「敬愛する指導者」 の呼び名が用いられるようになった。
 金日成のプロパガンダを支えたのはソ連軍の指示を受けた 400人以上のソ連系朝鮮人であった。
 彼らはスターリンがソ連では絶対的な権威であったので、北朝鮮でも金日成が同様の権威を 持つべきだと考えて個人崇拝を進めていった。
 (元北朝鮮文化宣伝省次官の証言)
 
 当時のソ連系朝鮮人の一人は、「我々の支援が無ければ金日成の個人崇拝は無かったろう。 これが現在の北朝鮮の悲劇の原因だ」 と悔やんでいる。
 
 金日成の個人崇拝が進む中で、ソ連は政策を大きく転換した。
 1956年2月、共産党第20回党大会でソビエト共産党第一書記フルシチョフがスターリンの 個人崇拝を批判した。
 同年7月、モスクワを訪問した金日成はフルシチョフから個人崇拝を止めるように求められた。
 
 こうしたソ連の動きは北朝鮮の反体制派を勢いづかせ、中国派が密かにクーデターを計画した。
 労働党の会議で中国派幹部が金日成の個人崇拝を批判した。
 しかしパルチザン派が大声で罵声を浴びせたため発言は途絶え会場は騒然となった。
 (元副首相の補佐官の証言)
 直ちに金日成は中国派全員を党から除名し、思想調査を行い不満分子をあぶり出した。
 国家体制に敵対的態度を取ったとして1ヶ月に 2000人以上が摘発され、公開裁判で 400人 以上が公開銃殺の判決を受けた。
 
 このような金日成の振る舞いに対してフルシチョフは強い行動には出なかった。なぜ?
 当時のソ連は社会主義陣営のリーダーであったため、陣営内での不都合が表に出るとリーダー が悪いということになりソ連の威信に傷がつく、ということをソ連の指導者は恐れ、北朝鮮の 不快な出来事にも目をつむったのだ。
 (元ソビエト共産党中央委員会幹部の証言)
 
★金日成は絶対的権力を握るために、自身への 「個人崇拝」 の感情を国民に浸透させる様々な仕掛けを して権威づけを進めた。
 そして、反対勢力は容赦なく粛清したのだ。
 
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  11-16(九地篇)
   「其の機を発すること群羊(ぐんよう)を駆(か)るが如し、駆られて
    往(ゆ)き駆られて来るも之(ゆ)く所を知る莫(な)きが如し」
     ※事を起こそうとするからには、羊の群れを追うように群衆心理を
    心得て、然るべき方向づけをして自由自在に動かすことが大切だ。
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★金日成は「孫子の兵法」が最も戒めていることを無理押し、また悪用して個人的野心の達成を目指して暴走し、 結局は、それを誰も止められなくなったのだ。
 
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